正休寺の緑起

正休寺正門

 正休寺は、親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗、真宗大谷派であり、本山は京都市の東本願寺(真宗本廟)です。地元では門徒宗(もんとしゅう)の寺として親しまれ、その住職は親鸞聖人の教えを受け、聖人と同じく肉食妻帯(在家仏教)の生活を営み、世襲制にてお念仏を相続してきた。
正休寺住職を務める高澤家のその歴史は、新羅三郎源朝臣義家の六代の末裔高澤伊賀守源氏信の二男高澤次郎源朝臣義氏(1267年没)に始まる。父氏信は、茨城県水戸地方の豪族で、聖人が関東に滞在されていたときに直接御教化を受けて直弟子となり、照願寺(現在茨城県美和村)の開基念信御坊となる。

初代義氏はその父氏信の影響もあり、26歳の時に正観音の夢告を受け、既に京都に戻られていた聖人の教えを受けたいと願い、水戸よりはるばる京都に赴き聖人を訪ね、京都に滞在して直接教えを受けることが許される。その喜びのあまり、武勇の髻(もとどり)を切り仏弟子となり、聖人から法名「順信」を賜わったと伝えられている。

その後、水戸に戻られ一宇を建立されたが、応安三年(1371年)兵火により堂宇を焼失し、石川松任村(現在の石川県松任市)に寺地を移し一向一揆に加わることとなった。加賀、越前での富樫、畠山、朝倉との戦い[文明七年(1475年)~長享2年(1488年)]の中で八代隨圓御坊は討死し、堂宇も焼失した。

その子順圓御坊はまだ幼かったことから、母方の北条氏に一時預けられ、17歳の時に水戸に戻り照願寺に一時身を寄せ、暫くして一宇を再興した。しかし、その後兵火による堂宇の消失などが重なったことを機に、家臣門徒と共に念仏流布のため北条氏の縁を頼って奥州に赴く。途中南部花輪に草案を結び、弘治二年(1556年)に波岳(現在浪岡)の松枝の山中に堂宇(大道寺精舎)を建立した。

浪岡城が津軽によって攻め滅ぼされたことから、元亀元年(1570年)に弘前市堀越に寺地を移され、さらに弘前市新寺町の真教寺内に移された。しばらくして現在の板柳町に移ることとなるが、正保四年(1647年)時の津軽藩家老が大道寺であったことから、その名を遠慮し、それまでの大道寺の名を改め正休寺と名乗り現在に至る。

本堂は、明治二十四年に類焼し明治三十九年に再建したが、山門は消失を免れ、現在板柳町最古の木造建築として町の文化財(第2号)に指定されている。

山門は、建築学上の鑑定により寛政年間(1751年~)の建物とされ、当時の宮大工の力量と気概を存分に示す貴重な建物となっている。

正休寺本尊 阿弥陀如来

阿弥陀如来
(あみだにょらい)

五劫思惟如来像

五劫思惟如来像
(ごこうしゆいにょらいぞう)

このお木像は、今から430年程前、太閣の重臣浮田大納言一族の家老の杉浦八十右衛門が、家臣と共に12歳の若君を擁して津軽の地(弘前市三世寺)に落ちのびて行くとき先祖を祀るために所待してきたとされる。
後に主従は世をはばかって会津姓を名乗り、今から170年前に正休寺11代堂順上人のとき寺に移され、以来寺宝として大切に安置されている。
尊像は、わずか12cm台座を含めて16cmの木像で鎌倉時代のものとされる。

釈迦牟尼如来坐像

釈迦牟尼如来坐像
(しゃかむににょらいざぞう)

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